ことわざ
それは分かっています。今のままの生活を続けることによって待っている自分の悲惨な将来は、簡単に想像できます。それを分かっていながらひきこもり続けるのが、私です。このあたりは、少なくともひきこもりでない人には、なかなか理解できないでしょう。
■ 親子の仲でも金銭は他人
ニート、ひきこもりの人とその親については、このことわざは当てはまらないことが多そうです。
■ 冬来たりなば春遠からじ
「明けない夜はない」など、似たようなことわざもありますが、全く実感に合いません。春や朝は放っておいても自然にやってきますが、ニート、ひきこもり生活は放っておくとますます抜け出せなくなります。
■ 捨てる神あれば拾う神あり
ニートやひきこもりの人は、拾う神がいないか、拾う神にまだ巡り会っていないか、どちらかでしょう。
■ 朝風呂丹前長火鉢
昔の遊び人の気楽な暮らしをこう言うそうです。私の生活にはこのような気楽さはありません。私の身の回りのニート、ひきこもりの人もそうです。みんな不本意ながら、ニート、ひきこもり生活を送っているからでしょう。
ついでに言うと、私はことわざのように朝風呂に入ることはありませんし、家計のために、服などは穴の開いたボロボロのものを着て、冷暖房の類もできるだけ我慢しています。
■ 二十歳過ぎての子に意見
二十過ぎの子供に意見しても、既に手遅れで、効果がないこと。救いようのないことわざです。意見のしようによっては、働き出すどころか逆効果になりかねないので、注意が必要です。
どのような児童生徒であっても受け入れるのが小中学校だが…
高校以上になると、少し話が変わってきます。入試に合格する力がなければどの学校にも入学できません。学校も、優秀な生徒を獲得したがっています。しかし、それでも、不登校経験者や学校中退者を意識した高校や大学、さらには高卒認定試験があるなど、多くの人にある程度受け入れられやすくなっていると私は思います。
企業や官公庁になると、もっと話が変わってきます。企業や官公庁は、仕事に就いていない人はどんな人でも受け入れてくれる、そういう性格の場所ではありません。従業員に対して「この職場で何ができるか」を求めるため、例えばコミュニケーション能力がないなどの理由で「使えない」と思われる人は採用しない方針です(もっとも、それが悪いと言うつもりはありません。当然のことだろうと思います)。
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私などは、この、学校と企業・官公庁の違いが非常に大きなものに感じます。学校に入学することの難しさと、企業・官公庁に就職することの難しさは、まるで比較にならないと感じます。
私がこのように考えるのは、私は不登校の延長でニート、ひきこもりになったのではなく、不登校を経験せず、大学卒業後にそのままニート、ひきこもりになったからかもしれません。大学卒業時が就職氷河期だったことも関係しているかもしれません。
ニート、ひきこもりの外食
■ 母親と外食
最近では、外食というと母親と一緒に行くことがほとんどです。我が家は母子家庭で、父親はいません。
外食はいつも母から話を切り出し、外食先も母が決めます。私は黙って母の言うことに従うばかりです。母は家の主である上、私は昔から家族の中でもあまり自己主張はしないタイプでしたから。外食先へは、私が車で運転して向かうのが通例です。
店に着いたら、周囲の目が多少気になります。いい年をして母と一緒に外食に来ている私を、周囲はどう見るのだろうかということです。ですが、おそらくほとんど誰も気にはしていないでしょう。店ではよく、私と同年齢以下と思われる年齢層の人が働いている様子を見かけるのですが、感心しています。注文の際には、私はいつもメニューの中でも相当安いものを注文しています。働いてもいない自分が高いもの(特に、親より高いもの)を注文するのは道義的にどうかと思うからです。
食べ終わったら後、勘定はいつも母が払っています。こういうのは、成人男性の私が払うべきではないかといつも思うのですが、払えないのですから仕方がありません。なお、以前ひきこもりデイケアに同席されていた男性心理士(私と同年代、非正規雇用)は、家族で外食に行く際にはご自身が家族を代表して勘定を払っていたそうです。
■ ひきこもりデイケアのメンバーと外食
以前には、ひきこもりデイケアのメンバーと外食に行ったこともあります。これについては、今年1月に公開した「ひきこもり、外食に行く」の中で詳しくお話しました。
なお、私は家族と一緒に外食に行く時は、このような飲食店恐怖はありません。家族と一緒の時は話せるのに、家族と離れると極端に緊張して話せなくなる場面緘黙症(私がかつて発症していた)と関係があるのかもしれませんが、よく分かりません。
[注と参考文献]
社会から嫌われる人の、落ち着く先
こうした人たちと積極的に接したいと考える人は多くはありません。しかし、社会では「あの人は嫌いだから付き合わない」というわけには、必ずしもいかないでしょう。
それでもやはり、こうした傾向が特に極端な人たちは、就職の際に排除されやすかったり、職に就いても辞めさせられやすかったりするのではないかと思います。
無職になって、社会から孤立したこうした人たちは、どうなるのでしょうか。中には、それまでの自分の言動を反省し、自分を変えようと努力し、社会に復帰する人もいるかもしれません。しかし、そうした人ばかりとも思えません。中には、社会に受け入れられなくなった末、親など家族に経済的に依存する人、さらには、親元で生活する人も出てくるかもしれません。
社会から嫌われるタイプの人が、社会から排除された末、落ち着く先は家庭というわけです。これは、同じ家族からすればいい迷惑でしょう。家族と縁を切るのは、赤の他人と縁を切ることよりも難しそうです。もっとも、そうした人を育てたのはその家族(特に親)に責任があるので、自業自得という意見もありそうです。
もっとも、ニートやひきこもりの人に、こうしたタイプの人が多いと言うつもりはありません。私が参加しているひきこもりデイケアでも、社会経験こそ乏しいものの、よく出来た大人の方がほとんどです。[注] もっとも、私などは、その中でも未熟な方だろうとは思うのですが。
[注] もっとも、デイケア実施に際して問題のある人は、当初からメンバーから外されている可能性もあります。
ニートひきこもりと、親戚の子供との付き合い
私が彼らに最後に会ったのは、私が大学生の頃です。私がひきこもって以降、彼らとは一度も顔を合わせていません。子供の成長は早いもので、私がひきこもっている間に彼らは大きくなって、大きい子だと中学校に入ってしまいました。
私が彼らにこれまで顔を合わせていないのは、私が会おうとしなかったからです。私が会わなかったのは、ニート、ひきこもりの自分に引け目を感じていたから、そして、私のような無職の男が彼らの前に姿を現すと、まだ子供の彼らに何かよからぬ影響を与えてしまうのではないかという思いがあったからです。
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実は、私も子供のときは、今で言うニートだったり、なかなか思うような働き先が見つからなかったりした大人の親戚、それも比較的近い親戚が何人かいました。特に私が中学生あたりの頃から、無職の親戚が増えたと思います。
しかし、そうした親戚は、無職になったからといって急に私と距離を置くような真似をするようなことはありませんでした。
いま思い返してみると、不思議に感じます。この方たちは、少なくとも私の前では無職であることに引け目を感じている様子は見せず、変わらず私に親しく接していました。お互い近い親戚同士だから、そんなこと気にしなくてよいということなのでしょうか。それとも、表には見せない思いがやはりあったのでしょうか。
なお、私も私で、親戚が無職であっても、離婚をしても、今まで通り接していました。無職だからといって、特にどうとは思いませんでした。







